初出:2026/01/11
「HOT RODDERS "G"4th」 - 視点を圧縮する写真
要約
写真新人賞「夜明け前|New Photography Award」を受賞した、アートコレクティブGC magazineの個展「HOT RODDERS "G"4th Drifting with you『私の恋∞瞬間∞『螺旋』∞』」の記録です。
映像からフレームを選ぶ時間的走査と、巨大プリントの細部を追う空間的走査を、異なる表現方法のプロセスとして提示する。観客側の写真を見る行為において、ふたつのプロセスを合成し、観客側での写真撮影での走査のプロセスのモデルとして受け渡す。
その結果、極小の瞬間・細部への走査への遠心力が、写真の既在性(それはかつてあった)を未視性(ないことを証明できない)へ押し出す。
展示情報
GC magazine
「HOT RODDERS "G"4th Drifting with you 『私の恋∞瞬間∞『螺旋』∞』」
会期: 2024/8/31-8/54(=9/23 ※告知表記に従う)
会場:COPYCENTER GALLERY
GC magazine
GC magazineは2020年に結成された写真家を中心としたアーティストコレクティブです。コロナ期間中に発足し、zineの制作から活動が始まりました。現在は、ストレートな写真も扱いつつも、その枠に留まらないインスタレーション作品を展示しています。
この記事は、2024年に開催された「HOT RODDERS "G"4th Drifting with you 『私の恋∞瞬間∞『螺旋』∞』」の記録と考察になります。同年新たに審査が始まった写真新人賞「夜明け前|New Photography Award」にて、見事グランプリとなった作品でもあり、前回の展示と合わせて重要な展示だと思っています。 yoakemae.org
開催から一年以上経ってしまいましたが、2025年の彼らの展示(TURN OFF THE 5 PARADIGM LIGHTS)を見て、今までの展示をまとめておくことにしました。
前回の個展の記事(KILLER”G”3rd Running alone pushin”G”Big Bang !! High ACE)はこちら!
作品構成
会場は、印刷所跡を転用した新設のスペースCOPYCENTER GALLERY。東京の板橋駅から歩いてすぐの場所にある。ギャラリーとして改装されるまでは名が示す通り、印刷所だった。この展示の直前にはGC magazineメンバーである伊藤 颯さんが1F、地下1Fにて鈴木冬生さんがそれぞれ個展を開催している。現代写真の中でも特に挑戦的なアーティストたちが展示を行うギャラリーとして、存在感がある。
www.instagram.com
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展示会場に入ってすぐ、会場の中央にはKILLER”G”3rdでも使用された白いレザー張りの運転席が設置されている。その周囲に6枚の白いモノリスが立ち、その内側に向けてプロジェクターで動画を投影している。
その動画は、GCメンバーが夜の首都高を2台の車で走りながら、お互いの車・搭乗員を撮影しあうという内容で、iPodのカメラ機能によって撮影された。
6枚のモノリスの周りには、以下の4つの作品がそれぞれ展示されている。
- 今回のタイトルを指定し、AI生成されたハエの画像
- GC magazineメンバーとして認める首から下げるライセンスカード
- 今回販売されたジン ※立体的な構造になるよう手作りでつなぎ合わされており、広げると大きいシャッター構造のようになる。これと併せて、直前まで個展「NOHIN: The Innovative Printing Company」を開催されていた八木幣二郎さんの機械の図が展示されている。
- 3枚のモノクロの縦写真、それぞれに展示のステートメントが記載されている
それらの作品を通り抜けていくと、人間より一回り大きい黒いフレームが5つ並んだ巨大なプリント作品がある。これはデジタル画像をデジタルネガフィルムへプリントし、暗室プリントで規格外に引き延ばしたものだ。

地下1Fに降りていくと、この現像を行った場所と現像に使った機器を見ることができる。想像になるが、通常使われる引き延ばし機の結像する先を壁に向けて調整し、拡大したようだ。詳細は後述するが、完成された一枚というよりは、その作品を構成する一枚一枚の印画紙が強調されている。

圧縮する写真
写真の魅力は何か?と問われたら、無関係の対象達が一枚の中にまとめ上げられ、その中で新しい解釈をするように促してくるところ、と答えるかもしれない。そういった要素を強く持つ写真として、ギャリー・ウィノグランド(1928-1984)のCentral Park Zoo, New York(1967)を挙げる。 www.moma.org
この写真には「一つの対象としてまとめられた同一性」と、「克明に記録されたそれぞれの対象同士の無関係の非同一性」との同一性ともいうべき戯れがある。 写真に捉えられた一組の男女がチンパンジーをそれぞれ抱えている。彼らの後方に位置するレイヤーで幼い子供の視線が画像を横切る。また、男性の腹部あたりに撮影者=ギャリーの影が差している。これらは本来無関係な対象達であった。
しかし、この写真を見た際に僕が感じるのは、過去(人類の祖先であるチンパンジー、人の幼年期)と未来(人種差別のない世界、青年期)が、今(ギャリーの眼差しと写真の観客の眼差しの重なり)によって繋ぎ留められ、その瞬間に圧縮された情報と眩暈である。
ロラン・バルトは「明るい部屋」にて、死刑の執行が執り行われる前に撮影された若きルイス・ペインの写真から、この種のプンクトゥムに対して、こう言っている。
しかし、プンクトゥムはと言えば、それは、彼が死のうとしている、ということである。私はこの写真から、それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。
~
そこでは「時間」の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでしまった、と、それはこれから死ぬ、とが一つになっているのだ。
ロラン・バルト井 著, 花輪 光 訳, 明るい部屋, みすず書房, P119
この写真は1865年当時のアメリカ国務長官の暗殺未遂によって絞首刑に処されようとしている青年ルイス・ペインを撮影したものだが、彼の表情やポージング、壁のトーンの美しさがその未来を否定してしまっている。 バルトはプンクトゥムと死を強く関連付けているため、ここの引用は不適切に思われるかもしれないが、プンクトゥム=死というわけでもない。この写真における「死」は観客が写真につけるキャプションであり、時間の圧縮に巻き込まれる要素の1バリエーションにすぎない。
被写体の若い青年の顔やポーズからは、死を連想させるものはないし、撮影者アレクサンダー・ガードナーがどのような意図を持って撮影したのかも知ることはできない。この写真には複数の未規定性が結び目として存在している。 にもかかわらず、被写体と撮影者に対する、観客が与えるこの解釈によって、写真に含まれる未規定性が閉じてしまう。ここで退けなければならないのは、死=プンクトゥムという一つの見方である。その代わりに死というベールに包まれ、無問題化されている、写真内部の複数の要素の緊張関係をあぶり出さなければならないだろう。*1
「HOT RODDERS "G"4th Drifting with you『私の恋∞瞬間∞『螺旋』∞』」(以下、HOT RODDERS "G"4th)は、ビデオ作品を中心とした、それでいて異なる表現様式の作品が一つの場所に集められ、そしてまとめられている。そういった意味で、HOT RODDERS "G"4thはギャラリー向かいの大通りから指さされるような、一枚の大きな写真である。
統一される視点
しかしながら、無関係な対象を集めたからといって、まとめられるわけではないし、ギャラリーの壁という構造があればいいわけではないだろう。一枚の写真(=HOT RODDERS "G"4th)がとある”何か”を指示していることを同定できない限り、それらの対象の集まりは、単なるカオスにすぎないはずだ。
まず、二つの作品に注目する。
①モノリスに投影された動画には、ぐるぐると回転し続けるドライバーシートが設置されている。その周囲には、白いモノリスに対して、複数のプロジェクターによって、異なる方向に向かって映像が投影されている。映像の内容としては、夜の首都高でのドライブ中に車外を撮影したものになる。そこには特別な出来事などは無く、高速道路に乗った人間であれば誰もが経験したことであろう、到着までの長時間の退屈な時間を想起する。
②巨大プリントは、その動画から選択された1フレームの画像を、デジタルネガフィルムにプリント。そのネガフィルムから、通常のプリントではありえないほどの巨大なサイズに引き延ばす。巨大プリントはA4サイズの印画紙に分割され、プリントされている。制作中にinstagramで募集された期限切れの印画紙を使って、制作されたためか、印画紙にはムラがある。そのため、完成形ともいえる大きな一枚のイメージというよりも、一枚一枚が拡大されることによって、細部が強調されており、細部まで気にかけながらプリントする、そのプロセス自体が強調されている。
このことから、同様に①動画においても、投影先が分割されていることから、何かしらの基準で1フレームを探すというプロセスが表現されていることに気づく。
片方はデジタル的で、もう片方はアナログではあるものの、写真作品そのものではなく、写真作品を制作する際のプロセスが強調されている。 作品制作のプロセスは、一つの対象の状態の遷移を見せることで、表現することもできる。それは複製可能な写真であれば、なおやりやすい方法でもある。同じイメージやフィルムからのプリントに対して、異なるプリント方法やパラメーター(明度、彩度、コントラストなど)を指定することができるのだから。
しかし、今回の展示では、そのような明確な一枚の作品は、後述する例外的な一枚を除いてほとんど存在しない。その代わりに抽象的な対象を識別することができる。というのは、「対象がある視点において存在する」ことは、その視点内におけるその対象に対するプロセス全ての表現によって、識別できるからである。具体的には、①動画では、ドライバーシート上で延々と反復される選択のプロセスによって、「候補フレーム群A」という抽象的な対象が自明なものとなる。また、②巨大プリントでは、「細部の集合B」という抽象的な対象、といった具合に。
①と②のプロセスは、①「動画W→候補フレーム群A」と②「候補フレーム群A'→細部の集合B」にそれぞれ独立している。 この二つのプロセスを繋ぎとめているのが、二つの表現の共通項である一枚のデジタルネガフィルムである。このネガは動画撮影に用いたiPodのデジタルデータから作成し、②巨大プリントの制作に使用された。 けれども、その写真のもとにあるネガフィルムは、通常の方法でプリントはされず、作品としては提示されていない。ネガのまま、テーブルの上に並置されている。このことから、①「候補フレーム群A」と②「候補フレーム群A'」が同じ抽象的な対象であることがわかり、プロセスの合成を行うことができる。
ここまで総合すれば、①と②の一連のプロセスを、動画から、1フレームを選択し、さらに細部までくまなく走査するプロセスだと措定することができる。
動画W→候補フレーム群A→細部の集合B
W:撮影行為/(観客が仮置きする)元の動画全体
A:そこから切り出されうる候補フレームの集合
B:巨大プリントで顕在化する細部の集合
ちなみに、この共通項が存在しない場合、①「候補フレーム群A」と②「候補フレーム群A'」は似た概念であるものの別の対象であり、合成することができない。
第三者視点
ここまでは、アーティスト側から見た作品の構成として自明である。 しかし、観客側からこの作品を見る場合、その構成は逆から見なければならない。つまり、前提とされている動画から、細部を探し出すプロセスではなく、作品として提示された部分から、元の動画の存在を想像する反対のプロセスが求められる。
つまり、①動画では、ドライバーシートに座っている間に見出したフレームの集合から、動画全体を想像する。②巨大なプリントからは、一枚一枚の細部のプリントから全体の一枚の写真を想像する。 これによって、アーティストによって措定されたプロセスに対して、観客側のプロセスは、以下のような逆向きの関係にあたる。
(撮影行為または、とある動画W)←候補フレーム群A←細部の集合B
注意したいのは、観客は W を一意に同定できない、という点である。観客が手にするのは断片(候補フレーム群A/細部の集合B)に対する走査だけであり、それらは生成源としての W を決定するには情報が不足している。したがって W は「特定の動画」として回収されるのではなく、A と B を同時に説明しうる 「撮影行為または、とある動画W」として、未確定のまま残る。ここで自立しているのは W の内容ではなく、W を変数として仮置きし、A と B を往復する走査手続きである。
ここで、論調を変えることをお許しいただきたい。*3
ここまでは作品の構造の分析に努めてきたものの、最後のこの部分だけは、主観的に、プレイヤーとしての観客の美的判断が必要になる。 なぜならば、このモデルが作品内部に“選りすぐりの一枚”を残さない以上、その美的判定は観客の側の操作としてしか現れない。
加えて、①動画、②巨大プリントで異なる表現が合成され、また、その二つの作品の周辺に隣接する作品もまた、異なる世界観を横断しながら、同じモデルを踏襲し、選りすぐりの一枚、マスターピースを求める態度によって、作品が制作された。
僕もまた、それに対して答えるため、僕自身の作品について答えなければならないだろう。
命題1:
このモデルによる視点において、HOT RODDERS "G"4th内部に、マスターピース・選りすぐりの一枚は存在するか?
答え1:「存在する」
超D-MONHENdS焉にて展示された、一人一人のアーティストの作品が優れていることを知っているし、なにしろ、②巨大プリントのイメージは、かっこいい。 僕の美的基準において、マスターピースは存在する。
命題2:
このモデルによる視点において、僕の作品内部に、マスタピース・選りすぐりの一枚は存在するか?
答え2:「判定不能(存在しない、と断言できない)」
どういうことだろうか?
確信をもって、存在を表明できる写真はなく、答えは「存在しない」のはずだ。
命題1について、納得できない方もいるだろう。その場合、有意義なモデルではなかったということで、実験的な思考として、読んでいただき、ご助言いただきたい。
マスタピースの存在命題について、このモデル内部には、その判断基準は示されていない。その一枚が提示されていないのだ。そのため、観客自身の判断に委ねられる。ところが、このモデルはその適用範囲を時間的・空間的に引き延ばすことを要求する。そのため、あらゆる微小な瞬間・細部を走査し続けることができる場合、存在の否定を断言することができないのだ。
また、これには、複数の表現体制を合成するプロセスも必要になる。単体の表現体制の内部で、マスタピースの存在を示した場合、そのモデルはその作品内部に限定されたものであって、他の表現に転用できるわけではないからだ。
最後にまとめよう。 つまり、現代の写真表現とは、自立したモデル(=視点)を観客の視点に重ねることによって、既在(=それはかつてあった)→未視(それはない、と断言できない)に転換することにある。
*1:ジャック・ランシエールのバルト批評から引用。 バルトのプンクトゥム(写真へのキャプション)と死のイメージへの短絡によって、未規定性が消え去る。
このように、バルトはイメージの過去と死のイメージを短絡させている。だがこの短絡は、彼がわれわれに提示している写真がもっている特徴、すなわち未規定性を示す特徴を消去してしまう。
ジャック・ランシエール 著, 梶田裕 訳, 解放された観客, P146,法政大学出版局
この引用したルイス・ペインの写真では、複数の未規定性が提示される。その未規定性とは、絵画的な構図、過去(写真の風合いの古さ)と現在(現代的な服・ポーズなど)、人物の態度(強い眼差し)である。 この未規定性が、意図的/非意図的、既知/未知、表現されたもの/されていないもの、現在/過去などの間を巡回し、それらの結び目になる。
*2:詳細は明示しないが、この展示は涼宮ハルヒの憂鬱や、エヴァンゲリオンなどのアニメーションを想起する。 そのため、今回のテキストを書く際に、ノベルゲーム評論でもある「ゲーム化するリアリズム」を参考にした。特にゲーム「Ever17」内部で提示される「第三視点」理論は、二つの異なる世界観を調停する重要な概念で、物語内部のプレイヤーと、ゲームを走査している現実のプレイヤーの視点を重ねる表現についての分析である。
その理論によれば、異なった時空間にある二つのきわめて類似した事象を重ね合わせると、両者を見渡す四次元的で超自然的な存在、彼女の言う「第三者視点」を、特定の人物に召喚できることになっている。
東浩紀. ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書) ,P183. 講談社. Kindle 版.
また、バルトが写真は志向対象と分けることができない、と警告していることを留意しながら、モデル(=視点)として、自律した記号表現の抽出を試みている。この特性から、テキストのように記号表現にわけることはできない。しかし、一枚の写真を見た際に、常に似た別の画像との比較が為される場合、2枚の写真の特徴量が、記号表現として自律するだろう。 これは、典型的なキャラクター像においてはそれを自覚することはできないが、図像的なキャラクターも同様であると考えている。
キャラクターの物語からの自律という現象は、物語のほうから見ると、キャラクターがメタ物語的な結節点として与えられているがゆえに、あらゆる物語に対して別の物語への想像力が半ば自動的に開かれてしまうことを意味している。
東浩紀. ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2 (講談社現代新書) P.102-103. 講談社. Kindle 版.
この投稿では「統一される視点」において、異なる表現体制の比較から、プロセスの自律。「第三者視点」においては視点の重なりによる未視性について考察した。
*3:彼らの個人の展示においては、図像・構成の類似した異なる作品同士を時間的な落差を伴いながら、展示することによって実現している。過去に見た彼らの作品を内在意識から想起し、直近の作品への知覚において、異なる作品同士を同一視する。