初出:2025/11/02 ()
更新:2025/11/04 (概要・関連情報追加)
GC magazine「KILLER “G” 3rd」(2024/02, PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA)を手がかりにフォトスポットを再考する。フォトスポットは、(1)撮影を通じて共同体の語彙を増やす装置である一方、(2)実質を欠いた形式への傾倒という二重性をもつ。本稿は、この作品が通常の〈フォトスポット→撮影→形式化〉を、〈形式化→撮影→共同体への帰属表明〉へと関係を反転させる表現であることを提示し、発生直後に近い能動的な撮影を促すことについて論じる。
- 偽のフォトスポット=“らしさ”の積層で成立
- 被写体→写真の一方向性を反転(参加者=展示写真を同じ文脈へ)
- 新しいポーズ規範を観客側が生成しうる
展示情報
展示情報
GC magazine
「KILLER”G”3rd Running alone pushin”G”Big Bang !! High ACE」
会期:2024/02/03~02/18
会場:PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA
www.instagram.com
GC magazine
GC magazineは2020年に結成された写真家を中心としたアーティストコレクティブです。コロナ期間中に発足し、zineの制作から活動が始まりました。現在は、ストレートな写真も扱いつつも、その枠に留まらないインスタレーション作品を展示しています。そして、SNS投稿やスマホでの撮影といった誰もが写真を扱える時代における写真とは何かということをキャッチアップし、その技を作品を通して教えようとしてくれている、そんなアーティストたち。
この記事は、2025年の彼らの展示を見に行く前に今までの展示をまとめておこうというものです。
次回の展示「HOT RODDERS "G"4th Drifting with you『私の恋∞瞬間∞『螺旋』∞』」の展評はこちらです。 anunero-index.com
作品構成
作品構成 会場は愛知県名古屋市の名古屋駅前にある、現代写真のギャラリーPHOTO GALLERY FLOW NAGOYA。少し場所がわかりにくいのですが入口にかんばんが出ていて、階段を登って少し奥に行くと白い空間が見えてくる。
会場の中に入るとまず、目の前にガチャガチャが鑑賞者を引き留めるように設置されており、そのすぐ近くに向き合うように白いレザー張りの助手席も設置されている。

そして奥の中央には、同じ車の運転席が設置され、写真撮影後の合成を容易にするようなブルーバックを模した青いカーペットが吊り下げられている。そして、その周りを取り囲むように、GC magazineのメンバーが決めポーズを取り、撮影されたであろう巨大な写真が展示されている。
これは、まさにどう見ても、「ここで撮影をせよ」というフォトスポット。
※後ろに置かれているのは、ガチャガチャの景品

www.instagram.com
共同体への帰属を表明するためのフォトスポット
まずはじめにフォトスポットというありふれた対象について、整理しておきたい。撮影を行う場所・タイミングという観点から、フォトスポットには以下のようなものが挙げられる。
風景(例:旅行先での高所からの撮影・休憩所からの海山の撮影)
建築(例:国立新美術館のような有名な建築物)
記念碑(例:少年よ大志を抱けで有名なクラーク博士像、幕末志士像など)
イベント(例:展示・コンサートの入り口や、メインの出し物)
共通しているのは、その場所やホスト側にある固有の歴史や被写体を撮影することで、よく映った写真であればSNSにアップするということ。この一連の手順によって、撮影者はその場所や共同体にまつわるボキャブラリーを増やしたり、撮影者とその場所/共同体との関係性を強化することに繋がる。
特に記念碑やイベントでのフォトスポット撮影というのは、自撮りを行うことも多く、記念碑像を真似たポージングやお決まりのポージングをとることは「そのスポットのことが大好きな私」ということを表現することに等しい。だからこそ、政治的に意味の深い記念碑と一緒に撮影しSNS空間へ投稿することは、異なる規範を持つ共同体への拡散によって、想定外の受容が行われる可能性もある。特にここ愛知で行われたトリエンナーレにて開催された不自由な表現展における記念碑的な作品への一時中止は強い印象に残っている。
この展示(以下、KILLER”G”3rd)をこの見方に合わせて考えれば、このフォトスポットで撮影することは、アーティストのコンサートにおける自撮りのように、GC magazineに対しての愛を表明することといえるかもしれない。 しかし、1回目の展示の爆業~Driveといったキーワードにあやかっているものの、車に関する彼らのエピソードはまだ少ない。これは明らかに偽のフォトスポットである。僕はいったい何に対して愛を誓えばいいのだろうか。
シミュラークルとしてのフォトスポット
ここである写真家が生み出した一つのフォトスポットの誕生から、ヒントを得たい。
フォトスポットで写真を撮りたいという欲求は、遅くともライカのような持ち運びが容易なカメラが普及した時点からすでにあった。有名なのは安井仲治 「海浜」(1936)の斜めに傾いた灯台と籠の写真。直立しているはずの灯台が斜めに傾き、籠が何か別の物事を象徴するような、観客の不安を呼び起こす作品で、作品発表後には模倣者が多く現れた。
ただ、被写体となったその灯台自体はおそらく特別なものではない。それでも、この写真作品が撮影者たちの模倣を動機づける根拠としては、その場所自体の魅力というよりは、安井自身や安井の表現形式への憧れだと、同じような写真ファンの立場からは推測する。同じようなことが、アメリカの小説に関する記述にあったので、引用させていただく。
シミュラークルに関し、よく引用される文学の例の一つが、ドン・デリーロの偉大なるポストモダン小説、『ホワイトノイズ』(一九八五)[邦訳、集英社]の中の「アメリカでもっとも写真に写された納屋」である。納屋は何度も何度も写真に写されたが故に観光客を引きつける場所になった。
~中略~
納屋はシミュラークルである。なぜならそれは起源をもたないからである。このもっともよく写真に写された納屋を写真に写すことができるのは、それが写真に写された後でしかない。イメージする能力とシミュレーションの過程は納屋の何たるかに先行しており、そして納屋の何たるかを生産している。それは写真という過程を通じてのみ、写真に写されることが可能なもの(「もっともよく写真に写された物」という意味での)になる。
クレア・コールブルック 著,國分功一郎 訳, 青土社, シリーズ 現代思想ガイドブック ジル・ドゥルーズ P189-190
なるほど、僕は初めにフォトスポットでの撮影する行為とは、共同体への帰属を表明する行為であることを述べたわけだけど、安井の灯台の作品や、ホワイトノイズの納屋についていえば、それは現実に存在するもの、場所から切り離されたイメージ、つまりシミュラークルである写真を反復を繰り返し生み出す行為であり、その生み出された写真から、また別のイメージのシミュラークルを発生させる行為といえる。
むしろ、最近のフォトスポットに関してはこちらの方が適切に思える。イベントや簡易的に設置された撮影スポットに関しては、ある特定の撮影スタイルがルーチン化され、背景にある撮影対象とは文脈的に切り離されてしまい、形式的な行為になってどこか白けてしまうことも多い。
インターフェイスとしてのフォトスポット
中央に鎮座するフォトスポット。これはフォトスポットの再現のための偽のフォトスポットである。 にも拘わらず、なぜフォトスポットとして成立するのか?
実は彼らの手法はシンプルだと思う。キーワードは「だけど、偽」。
ハンドル中央部のはめ込まれた勇ましい牛のエンブレムを模した光る食玩フィギュアを見れば、ヨーロッパの車メーカーとして採用される獰猛な動物を模したエンブレムを連想させる。しかし、それは偽なのである。 天井から吊るされ、運転席の背後に回った青いカーペットは、遊園地のアトラクションの前後に設置されるような、観客の記念写真撮影の合成写真のためのブルーバック。だけど、それは偽なのである。
このフォトスポットには、遊園地のフォトスポット"らしさ"を感じるものの即座にそれが偽物だとわかる、小さな積み重ねによって構成されている。また、ここが遊園地なのであれば近くにガチャガチャがあるのも当然かもしれない。周囲に展示された写真は、先に並んでいた観客たちの記念写真が販促用にモニターに表示され、自分自身で確認して受付でプリントを頼むようなものだ。
それはレンガ作りのアーチを完成させるまでの暫定的な枠組みとしてのセンタリングのように、全体としてフォトスポットが完成するまでの仮固定のために働く。
しかし、最終的に残るのは、本来あるはずのフォトスポットの主題が消失し、この撮影の舞台であるフォトスポット自体が、シミュラークルを産み出すような写真の役割を担うことになる。
反対に、ギャラリー壁面に展示された写真にはGC magazineの存在が示されている。このフォトスポット上で撮影された全力で楽しむGC メンバーたち。フォトスポットを設置するホスト側が担うはずの共同体への帰属への表明の根拠が、その撮影対象にはなく写真の中にのみ存在している。 僕たちはこのフォトスポットにて、楽しみながら撮影されることによって、この写真達と同じ存在として扱われる可能性を秘めている。
この作品は、ちょうどフォトスポットの被写体と写真の関係性を逆転したように見立てることができる。 これによって、KILLER”G”3rdで撮影した人間と展示された写真を同じカテゴリとみなすことができ、本来であれば情報を生成する元である被写体が持つ一方向性が消え、写真の中で情報の発信元と受容元が等価に結ばれるのである。
そして、僕たちが従うべきこの共同体の規範として示されているのは、数点のメンバーの大判写真のみと少なく、ここでの振舞いの自由度が確保されている。むしろ、KILLER”G”3rdで撮影する観客が、よりエネルギッシュで模倣したくなるポーズを産み出すことができれば、この形式上の新しい規範となりうるかもしれない。
この作品に参加したいという衝動の源は、フォトスポットが生まれた瞬間にのみあるような、新たに作られたこの形式上の空白とその形式上に連なる新たなボキャブラリーの発見への衝動にある。

こちらから展示の時のトークイベントをご覧いただけます。
Abstract (EN) — Reconsidering the “Photo Spot” via GC magazine’s KILLER “G” 3rd (Feb 2024, PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA): I argue that the work inverts the usual chain—photo spot → shooting → formalization—into formalization → shooting → declaration of belonging, prompting audience-driven, near-originary acts of photographing rather than passive replication of a preset pose.