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現代の写真について語ります

Hyperlink#0 : 「Hello, World!」-グリッドとフラクタル

初出:2026/02/18

要約

現代写真家によるアーティストネットワークHyperlinkの個展「hyperlink://#0/Hello, World!/LON-TYO/2025-10-11_13」の記録です。
東京会場で開催された「蒸発と降雪」。ロンドン会場では「Breathe」。写真やビデオ通信を媒介としたコミュニケーションを通して、二つの展示空間にお互いの作品を構築していく。その過程で起こる新たな規範の生成と規範を逸脱する想定外の行為の相互作用によって、偶発性を巻き込みながら、新たな意味、新たな規範を生成していく。

展示情報

Hyperlink
「hyperlink://#0/Hello, World!/LON-TYO/2025-10-11_13」

東京会場
「蒸発と降雪」

会期(JST:Japan Standard Time, UTC+9):
2025/10/11(土) 17:00~21:00
2025/10/12(日) 09:00~21:00
2025/10/13(月) 09:00~19:00
会期(BST: British Summer Time, UTC+1):
2025/10/11(土) 09:00~13:00
2025/10/12(日) 01:00~13:00
2025/10/13(月) 01:00~11:00

会場:北千住BUoY (https://buoy.or.jp/)

ロンドン会場
「Breathe」
会期(BST: British Summer Time, UTC+1):
2025/10/11(土) 09:00~21:00
2025/10/12(日) 09:00~21:00
2025/10/13(月) 09:00~19:00

会場:Florence Trust NW1 (https://theflorencetrust.com/)

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東京会場

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ロンドン会場

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世界中のアーティストを繋ぐアーティストネットワークHyperlinkは2025年6月に石田康太さん、岡崎孝一さん、権名津みゆさんにより設立された。
アートコレクティブが有機的・流動的に、主体的な制度を形成する集団であるならば、アーティストネットワークは上記に加え、非局所的な場所・文脈同士の偶発的なコミュニケーションから、予期しない創造や対話を生み出すことを志向する試みです。
このネットワークに参加するアーティスト達は、遠い場所に隔てられながらも、インターネットを介したリモート通信を駆使し、作品を制作します。そのためにはお互いの作品や背景を深く理解し合う必要がある。その過程で新たなコミュニケーション方法が次々と生まれていくことでしょう。

note上でも別プロジェクト「IDOBATA」が進行中です。

note.com

早くもHyperlink#1の開催が2026年に予定されており、今後の活動が楽しみです。

作品構成

今回の展示では、2人のアーティストがお互いの作品を入れ替え、地球の裏側ともいえる遠く離れた場所で、自分の作品を構築していくプロセスを他者に委ねることが主題となっている。ここ、東京ではロンドン在住のアーティスト石田康太さんの作品「蒸発と降雪」を岡崎孝一さんが構築する。また、反対にロンドン会場では、岡崎さんの作品「Breathe」を石田康太さんが構築する。

僕がお伺いしたのは、東京会場である北千住BUoY。会場は前身をボーリング場とした深い奥行きを持つ。入り口の階段を登るとカフェが併設され、その奥に自由な展示が可能な広いスペースがある。一日目の19時ごろに訪れた際には、両会場の展示が同時にスタートしており、すでにロンドン会場で撮影された写真がプリントされ、貼付けが始まっていた。
ロンドン会場の様子は、展示スペース中央に設置されたパソコンやiPadを使用したビデオ通信によって行われる。実際にロンドン会場「Breathe」の様子やお話しを石田さんから伺うこともできた。

東京会場1日目

作品について論じる前に、もう少し詳細な構成について概要を示しておく。

まず、ロンドン会場「Breathe」では、東京から送信される画像データを、クラウドプリントサービスを経由して、会場内でA4サイズでプリントする。それらは石田さんや、会場を訪れた観客の方の手によって、壁に貼付けられる。東京から送信される画像データは、色彩を示すRGB値からランダムに生成された色を、グリッド状の縦横の線として生成した。そのプリントは、遠くから見ると単色のグラデーションのようになっている。貼付ける場所や向きは、アーティストと観客の各々の選択にされ、東京会場やSNSへの投稿からは一貫性を見て取ることはできない。このプリントはロンドンの湿気や重力などの環境から影響を受けて変形し続ける。

東京会場「蒸発と降雪」では、ロンドン会場の壁面を撮影した画像データを、同じクラウドプリントサービスを使用して、A4サイズでプリントする。プリントされた作品は、天井から吊り下げられたワイヤーを起点として、罫線のように縦横に几帳面に整列されながら、上から吊るされていく。ワイヤーの設置は3.8mx5.3mの長方形として指定され、A4プリント横の長さから列数に換算すると、各辺13,19,13,18列、4辺合わせて63列存在する。これがプリントを貼付ける場所の選択肢でもある。ロンドン会場とは対照的に選択肢は制限されている、といってもいいだろう。そして、プリントの集合は最終的にグリッド状の直方体になる。

2つの会場で行われる展示行為は非同期的に作用し合っている。以下の図は、印刷・撮影される画像データと作品となるプリントの流れ、そしてタスクとして発生するプリントと撮影行為を処理するタイミングに着目したものとなる。

Hyperlink#0

特筆すべきは、東京会場からはプリントされた画像が、いつどこで、どのようにロンドン会場で撮影されたのかが不明瞭なことである。
ロンドン会場での撮影は、30分に1回の間隔でまとめて複数枚行われる。ロンドン会場の断片的なスナップショットが東京会場にプリントされるのだが、後述する撮影方法によって、写真の撮影場所を同定することはできない。また、この撮影は、貼付けと同様に会場を訪れた観客の手によって行われることもあるため、統一された品質の画像としてプリントされないこともある。また、プリント順もクラウドプリントサービスが並列でタスクを処理していることから、順番は保証されないだろう。
また、ロンドンと東京の時差も、両会場のプリントの貼付けに影響するはずだ。スタートは同時であるものの、二日目以降は片方の会場のみがアクティブであることから、一方的にプリントのみ行われ、貼付けできない時間帯がある。必然的に二日目の始まりには、プリントが溜まっていることになる。東京会場では貼付ける場所への選択だけではなく、貼付けるプリントの選択も発生する。

東京会場での最終的なアウトプットがこちらになる。

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そして、僕は東京会場からこの作品を眺めていた。お伺いした初日の状態から考えたことをまとめておく。ロンドン会場で起こったこと、3日間の会期で起こったことや、別の見方があればぜひご助言いただきたい。

アーティスト=神秘家という役割への期待を否定する

アーティストに対して、普段僕たちが見ることができないような圧倒的なイメージや、世俗に満ちた世界に対して一歩距離を置き、新たな再解釈を求めるような「何か」を表象する神秘家としての役割を要求する。しかし、今作においてはアーティストの主観の内にあると期待される神秘は、その表現を他者に委ねる方法論によって破砕される。8時間の時差のある遠く離れた場所で、別のアーティストや会場に訪れた観客らによって作品の制作が行われるのだから。

反対にその神秘のベールが解かれたからといって、その拘束から自由になるかといえば、そういうわけでもない。実質を認識できない形式的な儀式が、その空虚さゆえに、その権威性を覆い隠しながら行為者に対して従属を強いる場合がある。作品の制作において、文字通りの物質的な変化を伴う行為に留まるのみで、主体性を伴う選択がなければ、それもまた神秘的なものでしかない。

東京でプリントされた作品を列に貼付ける、という行為には、行為者が貼付け先を選ぶ選択肢がある。しかし、その選択肢がどのような規範を伴って、選択されるのか?ということは、自明ではない。この規範が存在しない場合、その選択的行為はランダムに遂行され、自分の意識の内にある規範(=観察)を伴うとはいえないだろう。

社会学者の大澤真幸は社会システムにおける行為について、こう述べている。

全ての行為が、--行為を「観察」(指し示し)の操作によって定義した場合には--自己指示的な形式をとっている
大澤 真幸 著, 青土社,行為の代数学 新版, P104

あるシステムの内部において、対象をある特定の「意味」において措定している行為を妥当なものとして指定し、他の可能性を否定する情報を備えている。それが「規範」である。ゆえにあらゆる行為に付随する意味に対し、先行して存在している。

2つの会場で構築された作品から、僕が見た東京会場では規範に忠実で自律的であろうとする力と、その規範から逸脱しようとする力。2つの傾向のせめぎ合いが見て取れた。*1

表現を他者に明け渡すこと、そして規範の順守と逸脱のよじれを生み出す力学によって、前提とする神秘が砕け、散乱した呪力の残滓*2から規範を見出すことによって、作品について論じていこう。

配置に現れる平均的な秩序

この作品の主題は何だろうか。ステートメントを確認すると東京会場では、「ロンドンの展示空間を撮影し、そのデータを東京へ送信・出力することで、遠く離れた空間を写真の断片によって複製する試み」とある。
まずは、ロンドン会場の再現を目的として措定するのがいいだろう。しかし、その目的はあくまで仮のものであることは強調しておく必要がある。作品の構成上、ロンドンの会場をそのまま再現することは不可能だからだ。

「蒸発と降雪」の一日目のはじめは、ロンドン会場の白い壁しか映っていないことも多かったが、ロンドン会場側でのプリントの貼付けが進み、会場内に色が満ちていくことによって、東京会場でプリントされる作品にも色のバリエーションが増えていく。
東京会場の最終的な状態を見ると、完全なランダムとはいえないある傾向が生まれている。プリントの配置がランダムなのであれば、ロンドン会場の時間の経過に伴い、上部から下部に行くほど、ロンドン会場の画像内のプリント枚数が増えていくのみだろう。
ところが、時間的に連続して撮影された写真や、見切れた写真同士を隣接する場所に配置する傾向が、局所的に秩序として現れている。

ところで、自動的に東京から送信されるこのグリッド状の画像は縦・横それぞれの色をRGB値からランダムに組み合わされたもの。一つの画像データが取りうるバリエーションは、縦横二つの線の組み合わせから、約281兆(約1677万色の2乗)あり、組み合わせが重複することはない。最終的に600枚に及ぶロンドン会場のプリントは、その色の組み合わせの一意性によって、ロンドン会場の作品を一意に同定するための足場になりえたはずだった。
しかし、ロンドン会場では、壁に近づき並行に撮影されるため、壁の場所を一意に同定する情報はほとんどない。つまり、ロンドン会場から送信される画像データを、東京会場にて撮影場所と同じ位置に貼付けることは不可能である。 写真からロンドンの壁の絶対座標は特定できず、複数枚が写りこんだ場合に、プリント同士の相対的な位置関係を一意に持つことができる程度だ。この状況で明確になるのは、ロンドン会場の状況をそのまま把握し、再現することへの不可能性である。*3

色彩体系に対する複雑性の縮減

さらに、 東京でプリントされた作品には、発色の変化や縞模様が発生していた。東京からロンドン、ロンドンの撮影から東京へと距離的に引き延ばされたプリントの過程で情報の劣化が発生したのだと思われる。この劣化の主な原因として疑われるのは、ロンドンでの撮影時のデモザイク処理とクラウドプリントサービスへの画像データの送信時に行われる画像の圧縮である。ロンドンでプリントされる画像データは1px程度の細い線が周期的に並んでおり、一般的なデジタルカメラに採用されるベイヤー配列の撮影素子を用いて、プリントと平行になるように撮影した場合、偽色が発生しやすい。また、データ送信する際に、大きな画素数から小さな画素数に圧縮することになる。その圧縮プロセスにて、隣接するピクセル間の急激な色の違いから、高周波成分が失われやすく、元の色と細い線を再現するのは難しいだろう。

必ず一意になると想定していた画像の色は、東京会場に戻ってくるまでの間に色がくすみ、紫、オレンジ、茶色、ピンク、青、緑、黄緑、黄色、赤のように色のバリエーションが縮減し、離散値を取る。つまり、色彩体系が想定している最大の色数に対し、本展示では取りうる色数が縮減している。この情報の縮減は、ロンドンのプリント位置の同定の精度は低くするが、コミュニケーションの蓋然性を高め、意味の伝達に有利に働く。*4

本来、色彩体系とは、連続的な値を取る光をデバイス依存の色空間にて表現できるように量子化し情報を縮減するための規格である。本展示で起きているのは、縮減によって「同じ色(に見える)」という粗い同一性が作られ、揺らぎを抱えたままでも同じ対象として扱う判断が可能になる。すると配置は、単なる結果ではなく、次の配置の判断を制限する参照枠として保存される。ここで初めて、配置の履歴が「妥当な次の選択」を選別する規範として機能しはじめる。

社会システムと環境を分かつのは、各要素が取りうる値同士の関係の複雑性の落差である。つまり、社会システムの境界とは、すべての要素を社会システムの内部と外部で観測し、環境や他のシステムである外部と比較して、内部の各要素が取りうる値が、社会システムの影響を受けて制限される範囲のことである。また、現実的に発生した要素だけではなく、未来に何が起きうるか、起きるべきかという未来の値同士の意味が接続する期待の偏りとしても現れる。*5

この偏りは、展示の構成として与えられた選択肢よりも、自然に選択が狭まる秩序から、見出される。東京会場での配置行為の連関を社会システムの一種と捉え、その外部として、ロンドン会場では同一視されるプリントはより広い色域でより広い配置の傾向がある。

しかし、反対に言えば、システム内部の取りうる値によって、システムと外部の差異が決定されるのである。この自己指示的な連関は、再帰的なプロセスによって動的なシステムの変容を起こすが、自己言及の循環に代表されるような矛盾が立ちはだかる。当のシステムに内属した行為が、そのシステムの外在的な規範として、外部との境界を区分するとはいかなる状況だろうか。

モノクロ写真の撮影による逸脱的行為

2日目、突然の変調をきたす。プリントに現れるノイズのような縞模様がさらに強調され、色が失われたのである。会場の写真から、20枚ほどモノクロプリントが発生していることがわかる。
展示後にお話しを伺ったところ、モノクロ写真が発生した原因は、ロンドン会場に訪れた観客の方による撮影時の選択によって、モノクロモードでの撮影が行われたためであった。

モノクロ+縞模様が目立つプリント

次の写真は2日目終了時点の会場の写真となる。
1日目はある程度均一になるように列へ配置されていたのに対し、1面の特定の列のみ優先的に配置されるようになった。それまでの規範に対して大きな変化が起こったのである。これまでの傾向とは違い、モノクロ化したことによって、プリントの切れ目の輪郭(ロンドンプリントの切れ目、丸まり具合、グラデーションなど)を繋げるような配置が増えたように見える。また、それが特定の列に偏って配置されるようになったのは、縦に伸びた縞模様の存在もあるかもしれない。
今までの相対的なロンドンのプリント配置位置を再現しようとする規範に対して、より柔軟な配置が為されるようになったのである。

2日目終了時点

この配置は、まったく同一ではないものの、別の面でも類似した配置が行われていた。

モノクロプリント出力前

つまり、システムの外部であるロンドン会場で行われた、従来の規範とは異なる行為が、システムの内部に新しい秩序を生成する契機となる。

規範の変容しやすいシステム

では、このような規範の変容が許される柔軟なシステムをどう実現しているのか。

1つ目は未決定性にある。プリントを配置する行為者が遂行する行為に対し、先に提示した平均的な規範において、妥当/非妥当であるか弁別する。その弁別は単一的な評価を下す場合、即座に決定される。しかし、配置を決定する規範が複雑であるがゆえに、行為に付随する意味に未決定性が含まれている場合は、時間的な間隔によって未決定性が生まれる。隣接する次のプリントが配置されるまでの時間の間隔に、当の行為が妥当でも非妥当でもない曖昧な状態が生み出される。プリント間の要素間の関連性においては、次のプリントの配置が行われるまで評価できない。この曖昧な状態を許すことで、既存・未来の規範に対する拘束条件が緩くなる。

これは、過去の配置行為の妥当/非妥当が、その瞬間には決まらず、次の配置によって遡及的に決まることにもなる。たとえば同色の隣接が続いたとき、最初の一枚が偶有的に選択されたものが、二枚目・三枚目が置かれた後に妥当な配置だったと判断される。この遡及が繰り返されると、配置の履歴が後述する規範の生成によって、既在化しつつ成立する。それはまるで前から予見されていたかのようだ。

その未決定性は、東京とロンドンで出力したプリントが環境要因を巻き込みながら、作り出している。それは、ソフトウェア的な不確定要素だけではない。ロンドンの湿気から影響を受け形状が変わる。プリントを貼付ける行為に関わった様々な方々の感覚による配置の決定。ロンドンの撮影の視点の違いなど。参照される規範や判断材料が複数ある以上、その選択は常に「他の配置でもありえた」という偶発性を帯びた選択が許されている。

2つ目は、ロンドン会場での行為者は複数名おり、行為が匿名化されていることにある。Instagramを確認すると多くの訪問者の方々がプリントの貼付けに参加したようだ。また、そのことは、会場中央にある端末からビデオ通信アプリを介して、お互いに知ることができる。

www.instagram.com

先ほど、写真は同一の対象があるという扱いを可能にする“同定の足場”を供給することを示唆した。このことについて詳細に論じる。 以下の3つの行為が、同一の対象を志向して重ね合わされるとき、まるで他者の行為が自分の行為のように感じられる場合があるはずだ。

  • ロンドン会場のパースペクティブへ、プリントを貼付ける行為
  • 東京会場のパースペクティブへ、ロンドン会場の一部を指し示す撮影行為
  • 東京会場のパースペクティブへ、ロンドン会場の画像を貼付ける行為

色や線は、会場のパースペクティブごとの通信・印刷・湿気の状態や撮影角度によって揺らぎ、どれを「同じプリント/同じ局面」として扱えるかが危うくなる。にもかかわらず複数者が同じ対象に指示を続けると、その行為への判断は各人の内面では完結しない。写真を媒介にして、自己と他者が互いに反射し合うことによって同化し「誰でもない他者」が自律することだろう。
それらの指示が反復され、確固たるものとなるとき、対象の意味的な同一性として把握する指示の有り方が、「規範」的に妥当な選択肢として確立したことを含意する。このとき規範は、揺らぎを同じとして扱うための処理として立ち上がる。*6
重要なのは、この規範が実在する他者の反復によってしか立ち上がらない点にある。想像上の他者では、痕跡が外在化されず、揺らぎが現れない。

また、仮に、ロンドン会場から送信される画像がランダム性に乏しく、画一的な内容だった場合、初期に発生した規範を揺さぶる出来事が発生せず、常にその規範に対して、プリントの貼付けが妥当か非妥当か弁別するのみになっていただろう。

ゲームに参加する

ここまでの説明によって、作品の形式の開示は済んだ。 この形式の定義上、作品の内部にて何かしらの選択行為を行わなければ、外部との境界を規定する規範を生成することはできない。ここで一つ、ある一枚のプリントを強調することによって、このゲームに参加してみよう。最終的に700枚まで増えたプリント群のある時間帯の一枚を選択するという行為もまた、数ある選択肢から貼付け箇所を決める行為と同じである。

これは二日目の朝に撮影した写真。

ロンドン会場で撮影した画像が東京会場に貼付けされたプリントを、まるで予言しているようだ。隣接する写真の部分的な特徴量と当のプリントの変形具合が合成され、元の画像に類似している。

東京会場2日目 朝①

東京会場2日目 朝②

このプリントの状態は貼付けが進み、すぐ下に別のプリントが貼付けされることによって、消えてしまう。なので、この写真は僕の記憶の中とその瞬間を記録したこの写真にのみ潜在していた。偶然以上のことはないはずなのだが、何か確かな手ごたえ、存在感のようなものを感じる。

唐突だが、一つの可能性として、こうは考えることはできないだろうか。
僕はこのテキストの中で、ロンドン会場のパースペクティブでの行為と、東京会場のパースペクティブでの行為について論じていた。これらの志向作用は、ロンドンに対しては想像、東京に対しては現前の知覚である。しかし、今ここで考えている僕が志向するのは、想起による記憶のパースペクティブへの行為である。

東京から想像するロンドンは、時間の進展と相対的な空間の定位を含んでいた。同様に、記憶と思われている膨大な忘却の海には、断片的な画像が潜み、表面化するのを待っている。それがある逸脱的な指示行為によって、忘れていた複数の場面が一斉に呼び起こされる。このとき想起されるのは「自分の行為の記憶」ではなく、写真を介して他者に指示されうる行為の痕跡である。そのため、個人の内面として回収されず、「誰でもない他者」として、対象の意味的な同一性を確信させる。結果として、きっかけとなった当の行為によって指し示された対象は、既在性を帯びて確立する。

想像と想起を同様に扱えるものか、わからないが、この展示では現代の膨大な視覚的情報にさらされた社会構造を、グリッドによる現前化によって可視化しているようにも思える。

規範に従いながら逸脱する

まとめよう。 複雑性を縮減したにも関わらず、規範の可変性を肯定的に受け入れることによって、高い複雑性に対応するシステムとは、意外な結論に思えるかもしれない。
これは「規範を守りながら行為する」ことを他者の行為を受け入れることによって、為されうる。自らの心の内にある規範を、自ら逸脱することはできない。仮に逸脱した行為をおこなったとしても、その行為は非妥当なものとして弁別される。しかし、当の行為が行われた後に、その行為が妥当か非妥当の弁別を、他者が行う場合はどうだろうか。それも、同じ規範を本当に信じていると確信している他者に。
その他者によって指示された行為は、その直前までは非妥当だと考えられていたとしても、新たな規範として立ち上がることが許される。

僕はここに新しいコミュニケーションの形式を見る。

今回の写真表現を社会システムとして見ると、コミュニケーションの形式が領域の境界を区分する。この領域は、まずコミュニケーションにおける意味伝達の蓋然性の高い色彩体系を通して生成される。内属する行為者の指示行為によって満たされた空間であり、他者との相互行為から生成される規範は、領域の外殻として形式化・付与される。

二つの表現が壁をプリントで埋め尽くし、作品のプロセスは終了の契機を迎える。僕はこの作品に対して、明らかな余剰とも言える求心的観点によって、一つの規範を示したつもりだ。しかし、また別の遠心的なプレイヤーが現れ、読み方の規範は変容するだろう。作品の構築のプロセスで次々と迎えられた他者によって、規範の更新が成されたように。特に僕が見逃してしまっているような、より豊かな見方――例えば、より複雑な色と色との関係や、偶然的に起こったBUoYでの出来事など――その内部で行った出来事は、配置に影響しているはずだ。


ダン・グラハム 「Homes for America」

2007年Arthur Ross Architecture Galleryにて、マーク・ワシータのキュレーションの元で展示され、再評価されたグラハムの初期の作品「Homes for America」との本展示との関連性を簡単に示しておく。
「Homes for America」はニュージャージー州の郊外の大規模な住宅開発を批判的に捉えられた記事を、アーツマガジンに掲載したフォトエッセイ。もっとも有名なのは、MoMAにも収蔵されているこの作品ではないだろうか。

www.moma.org

1965年、彼がまだ若い23歳の時に開いたギャラリーは作品が売れず、わずか8か月で閉鎖することになった。そんな中、彼が興味を持ったのが、コダック製のインスタマチックカメラと郊外であった。第二次世界大戦後のベビーブームの需要に応えるべく、徹底的にモジュール化・効率化され、大量に建築された均一な住宅群をミニマルアートのような順列、そして郊外をギャラリーと見立て、「Homes for America」は制作された。
住宅の要素のモジュール化によって、住民は用意された選択肢の中からお気に入りの色や、住宅の構造を選択し、好きに組み合わせることができた。郊外の撮影は、その様々な色や形状をコダクロームスライドフィルムに記録され、ビビットな色で表現される。

焦点を当てるのは、この作品の内容(空虚に量産された住宅)ではなく、作品の形式にある。順列構造は郊外のパロディとして、フォトエッセイの構造にもなっているのだ。
あまり知られていないことだが、先ほどの作品はアーツマガジンに掲載された記事ではない。グラハムが雑誌に作品を持ち込んだ際、このエッセイはグラハムが撮影した写真とテキストで構成されていたが、編集によって、すべての写真が取り除かれる。そこに「Homes for America」というタイトルが添えられ、2枚の画像が差し込まれた。一枚は元の写真に類似しているウォーカー・エヴァンスの撮影した1910年代のアメリカの住宅の写真。もう一枚は批判対象である住宅専門雑誌に掲載されるような間取り図である。先ほどの作品は、編集が行われる前の状態に近づけて、1971年にリトグラフで制作されたパロディ作品だった。

エヴァンスの引用によって、1910年代の住宅との比較、そしてフローベールの作品から影響を受けたことによる、非人称的かつ無感動への志向という共通点が、二人のアーティストの作品に見出される。これによって、作品構造に大きな影響を与えた改変をグラハムは好意的に受け入れている。
作品を介したコミュニケーションを可能にしたのは、構造主義的なグリッドだと論じられている。テキストを見ると家の壁の色の組み合わせや、家の種類が列挙される。この「列挙」を他の要素と置換可能な行。従来の伝統的な連辞的なテキストを列と見なす。
差し替えられた写真はこの列挙にカテゴリされ、他の文脈の要素を代入可能な変数となるのだが、空間的な単なる置換ではなく、ウォーカー・エヴァンスとダン・グラハムを相互参照することを促すような結び目になったのである。

写真を含むページ上の記号は、内部を参照するだけでなく、その表現の外側を参照するベクトルとして機能し、別々かつ関連しながら同時に作用することがある。グラハムの関心は、その記号を能動的に解釈する読み手の能動的なベクトル操作にあった。

若きグラハムに起こったこの出来事が、自己が内属するシステムとその外部のシステムとの相互作用や、パロディ・ファンアートの表現へ志向するきっかけになったのだと推測している。

Dan Graham 著, LARS MÜLLER PUBLISHERS 出版, Dan Graham's New Jersey ,P118
Mark Wasiutaのエッセイ, 「NEW JERSEY INVENTORY」参照

Amazon | Dan Graham's New Jersey | Graham, Dan | Architectural

*1:ロザリンド・クラウスのグリッド論から、ちょうど逆向きに検討するのがいいかもしれない。

こうして、グリッドは美術作品から外側へ作用し、そのフレームを超えた世界の認識をわれわれに強いる。これが遠心的な読み方である。求心的なそれは、当然のことながら、美的対象の外の境界から内側へ働く。この読み方において、グリッドは、美術作品を世界から、環境世界から、そして他の事物から分かつあらゆるものの再-現前化である。
ロザリンド・E・クラウス著, 小西信之 訳 谷川渥 訳, 月曜社,アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話,P35

*2:一つの共同体が他の共同体との「平和状態」を作り出すために行われる互酬交換において、贈与されるものには呪力(ハウ)が宿るとマルセル・モースは考えた。ここでは、資本主義的な金銭的な商品交換との差異が重要である。商品交換が交換先に所有権を与えることに対し、互酬交換ではその対象への所有権ではなく、反対にお礼として物を与える義務をもたらす。贈与先には使用権のみが付与される。これは写真の撮影者-受容者の関係に類比的である。写真の与える情報から、受容者の行為の傾向を決定づけるが、決して所有しているわけではない。

この互酬交換が最初に行われたのはアニミズムと呼ばれる人類の狩猟採集の時代である。自然に属する動物を殺め、生活の糧にしなければならない当時の狩人は、対等な他者を「それ」として対象化する必要があった。

供犠とは、贈与によって自然の側に負債を与え、それによって自然のアニマを封じて「それ」へと切り替えることである。このことは呪術についてもいえる。呪術を、呪文によって、自然を「それ」として対象化することを可能にするものである。ゆえに呪術者が最初の科学者である。
柄谷行人 著, 岩波書店, 世界史の構造(文庫版), P84

交換する物質に元々呪力が帯びているわけではなく、互酬交換において贈与される当の情報が呪力なのである。僕は異なる作品・アーティスト、そして観客の間で行われる情報のやりとり、コミュニケーションの始まりに呪力の起こりを見る。

また、余談だが、呪術的世界観において双子の存在が特別視されるのは「それ」の同一性の揺らぎが起こるためである。「これは双子です」というとき、「これ」はどちらを指し示しているのだろうか。このことは後述するカラーシステムによる情報の縮減にて論ずる。あるシステムにおいては、異なる対象を同一視するという等値関係はシステムの境界そのものであり、普段は無問題化されているが、システムの安定性を揺るがす要素として必ず存在する。

*3:フッサールの現象学的還元によって、目の前のものや世界が客観的に存在しているという前提が括弧に入れて停止される。そうなると世界の存在のすべては、自分の意識に生じている表象である。東京会場で知りうることができる表象から、ロンドン会場の現実的な存在の曖昧さが、現象学的還元の方法へ誘導する。

なお、同一の対象があるという扱いを可能にする“同定の足場”を供給することについて、現象学的にいえば、難題に相当する。ある対象についての志向作用として現れるありありとした感覚(=志向内容)、今回の展示で言えば色や紙の輪郭といった絶対的所与から、そして1枚の写真という対象(志向対象)へ構成される際には、感じている所与以上の余剰が発生している。なぜ、色や線の所与が構成され、一枚の写真として明証的な所与が与えられるのだろうか。さらにこの感覚は自分の純粋意識に現れる様態であり、他者に現れているかどうかはわからないはずだ。そこから誰もが、対象が現実的に存在するという確信をもつ=主観の確信の根拠として捉えようとする。これが「間主観性の対象確信」であり、現象学がめざすところになる。
本テキストで使用する「意味」は、現象学でいえばノエマに内包される概念で、対象が「~として」意味を与えられること。「規範」は「ノエシス」に判断・同一性措定を反復可能にする側面として扱っている。志向対象(それ、写真)は志向作用(現前の知覚、想起、想像)によって志向内容(色や形のゆらぎの知覚)が一つのまとまりとして通時的に生成する。この対象に対して、規範が、対象の同一性の妥当性として意味を付与する。これは共時的な裁定である。規範が出来事に先行して見えるのは、生成(通時)と裁定(共時)のレベルがずれるためである。

*4:

選択の接続関係の不確実性は、メディアによって、許容しうる程度の確実性へと変換される。例えば、ある者の選択が、コミュニケーションの受け手によって受容され、選択の成果が保存されることの保証はない。このような課題状況に対して、受容の可能性を高める作用素として働くのが、真理、愛、貨幣、権力等の「シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア」である。
大澤 真幸 著, 弘文堂, 社会システムの生成, P325

*5:

規範は、社会システムの内部で許容される選択とその接続関係についての複雑性(多様性)を規定する。それは複雑性を縮減することである。複雑性の縮減とは、論理的には可能な出来事の内、ある特定の部分のみを生起させるということである。縮減された複雑性は、システムにおける秩序として観察される。環境は、常に、システムよりも高い複雑性を有する領域として現れている。社会システムと環境の差異とは、複雑性の落差である。
大澤 真幸 著, 弘文堂, 社会システムの生成, P178 -179

*6:

もし同時に生起する志向作用の数が十分に大きかったならば--つまり志向作用が十分に増殖的に複製されれば--、第一に志向作用の対象は、どの個別の志向作用(身体)に対しても既在性を帯びて現前するだろう。対象がある個体の志向作用に対して現前しているとき、既に別の個体の志向作用に対して現前していたものとして、受け取られてしまうからである。と同時に、第二に、志向作用の対象は、どの個別の志向作用(身体)からも独立して自存するかのごとく現前するはずである。志向作用が捉えた対象は、複数の志向作用の「全体」に帰属しているのであって、特定の志向作用に専一的に帰属しているわけではないからだ。要するに、複製機構を通じて互いに連結しある志向作用の数が十分に大きいときには、志向対象は、それら多数の志向作用に共帰属してしまうために、どの個別の志向作用の偶有的な揺らぎからも独立した分節形式において分凝し、その分節形式を自らの「正当な様態」であるかの如く身に帯びてしまうのである。このことは、その「正当な様態」を、対象の意味(的な同一性)として把握する志向作用の有り方が、「規範(的に妥当な選択肢)」として確立したことを含意している。
大澤 真幸 著, 弘文堂, 社会システムの生成, P330